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パソロブレス(、正式名称はエル・パソ・デ・ロブレス、、「オークの峠」という意味)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州南部サンルイスオビスポ郡の都市である。2000年国勢調査での人口は24,297人だったが、2010年には29,793人と23%成長し、2025年には44,000人になると推計されており、郡内では最も成長速度の高い都市である。未編入領域を合わせた都市圏での人口は2010年で41,249人と推計されている。サンルイスオビスポ市の北、サリナス川沿いに位置し、温泉や多くのワイン醸造所があることで知られ、またカリフォルニア州中部祭の開催会場でもある。 == 歴史 == パソロブレス市となっているセントラルコーストの地域は時代を通して温泉があることで有名だった。スペインによる伝道所時代よりも以前の数千年にわたってサリナン族インディアンが住んでいた。彼等はこの地域を「泉」あるいは「温泉」と呼んでいた。インディアンやその後の伝道所の神父達および信徒達は、治癒力のある水と鎮静効果のあるによって様々な慢性病から回復することが分かっていた。 パソロブレスはメキシコの特許土地であるランチョ・パソ・デ・ロブレスの中にあり、ここを1857年にジェイムズ・ブラックバーンとダニエル・ブラックバーンが購入した。この土地はカミノ・レアル道路を通ってきた旅人が休息する場所であり、鉱物を含む温泉で知られていた。隣のサンミゲル伝道所のフランシスコ会牧師達が、この地域で初の鉱泉入浴所を建設した。この時代に現在のパソロブレス市の設立者となった開拓者を惹き付け始めた。彼等は後に牛の牧場、リンゴやアーモンドの果樹園、酪農場およびブドウ園を造っていくことになった。 1864年、最初のエル・パソ・デ・ロブレス・ホテルが建設されたが、ここにも鉱泉入浴所が造られた。 ファイル:Boy With Guitar.jpg|歴史ある硫黄泉 ファイル:Paso Robles Clock Tower.jpg|パソロブレス時計塔 ファイル:Historic City Library.jpg|歴史あるカーネギー図書館 ブラックバーン兄弟が公衆公園用地として町に2つの街区を寄付し、住民や訪問者の娯楽に供されるものとした。当初の譲渡証書では、公衆公園以外の用途に使われる場合は土地を寄付者に返すこととされていた。その土地はレディントンという者が配置を決め、住民が植物を持ち寄って植樹の日が設けられた。当初はサボテンが土地境界のフェンスの代わりになっており、1890年に素人芝居で上げた収益を使って野外ステージが建設された。 1886年、サザン・パシフィック鉄道がこの町を通るようになり、この町の中核部を慰安のための場所として街区の整理が行われた。1886年10月31日に初めての列車が通ったその2週間後に3日間の祭が開催され、その参加者にはサンフランシスコからの特別列車で金持ちの土地購入見込者を連れてきて、この地域を巡り、日々のバーベキューを楽しんで貰った。11月17日、「グランド・オークション」が開催され、228区画が売却された。 サザン・パシフィック鉄道がパソロブレスを通った時の地元代理人は、ケンタッキー州生まれで金を探鉱するために1853年にカリフォルニアに来ていたR・M・'ディック'・シャッケルフォードだった。シャッケルフォードは金の探鉱からチームを組んだ牛追い、さらに製材業まで様々な経歴を持っており、ネバダ州に行ったときはワシュー郡の代表としてネバダ州の最初の議会で1期を務めてきていた〔A History of the State of Nevada, Thomas Wren, 1904 〕。シャッケルフォードは1886年までにカリフォルニア州に戻り、パソロブレスに住んで、広大な土地を購入し、そこに倉庫を建て、鉄道の線路沿いに材木置き場の運営を始めた。またサザン・パシフィック製粉会社も設立して事実上地元の製粉業を独占していたが、地元の農民がシャックルフォードの独占を破るために独自の共同組合であるファーマーズ・アライアンス・フラワーミルを組織した〔San Luis Obispo Heritage 〕〔R.M. Shackelford, A Memorial and Biographical History of the Counties of Santa Barbara, San Luis Obispo and Ventura, California, Mrs. Yda Addis Storke, 1891 〕。 パソロブレスが市制を布いたのと同じ年の1889年、新しく壮大なホテルの建設が始められた。その建設には100万個以上の煉瓦を必要とし、建設費用は160,000ドルに上った。この新しいエル・パソ・デ・ロブレス・ホテルは1891年に営業を開始した。建物は煉瓦造り3階建てで、砂岩のアーチが設けられた。このことで完全な耐火構造となった。また7エーカー (28,000 m²) の庭園と9ホールのゴルフコースもあった。屋内には図書館、美しいサロン、理髪店やビリヤード室とラウンジも備えていた。また改良された温泉大入浴場の他、32の個室浴室も提供していた。大入浴場は横20フィート (6 m)、縦40フィート (12 m)あり、当時のアメリカ国内で最大級に洗練され完成されたものと考えられた。 1913年、当時世界でも最も有名なピアニストかつ作曲家だったイグナツィ・パデレフスキがこのホテルを訪れた。パデレフスキーは関節炎の治療のためにホテルの鉱泉に3か月間漬かった後、そのコンサートツアーを再開した。その後ホテルに戻って生活するようになり、パソロブレス市の西側に2つの美しい牧場を購入した。 その後の30年間でこのホテルを訪れた著名人としては、ボクシングのチャンピオンであるジャック・デンプシー、セオドア・ルーズベルト大統領、セントジョンのアデラ・ロジャーズ、フィービー・アパーソン・ハースト(ウィリアム・ランドルフ・ハーストの母)、俳優のダグラス・フェアバンクス、ボリス・カーロフ、ボブ・ホープ、およびクラーク・ゲーブルがいた。メジャーリーグベースボールではピッツバーグ・パイレーツとシカゴ・ホワイトソックスが春期トレーニングの場所としてこのホテルを使い、鉱泉に漬かって疲れた筋肉を癒した。 一時期のパソロブレス市は「アーモンド・シティ」と呼ばれた。地元のアーモンド生産者が世界でも最大の集中したアーモンド果樹園を作り上げていたからだった。外郭部にある牧場は大変重要な役割を果たした。そこでは牛や馬が飼育され、小麦や大麦を主にする穀物、庭園作物および果実が栽培された。これら牧場地や果樹園は多くのワイン醸造所のためのブドウ園に変えられ、それが現在は多くの観光客を呼んでいる。 事業家達は牧場主達に対する感謝の気持ちを表すために1931年10月に「パイオニアの日」を設立し、これが現在でも盛大に祝われるようになっている。毎年10月12日より前の土曜日がパイオニアの日とされている。当初は個人、事業家、教会および奉仕組織からの時間、物資および金の寄付により地域ボランティアの活動で開催された。その目的は地域の友好を深め、歴史遺産を記念する日を提供することだった。さらに、年間を通じて地域の事業や専門家集団を支援する人々全てに「ありがとう」を言う日にも設定された。事業の大半は当日休業になるので、その従業員はその日の活動や家族の親睦を楽しみ参加することができる。この日の行事はどれも無料であり、営業もなく、昼食は無料で提供される。 ファイル:Vintage Tractor.jpg|年代物のトラクター ファイル:2010 Parade Goers.jpg|宿屋からの眺め ファイル:PioneerDay_26.jpg|年代物の広告 ファイル:PioneerDay_08.jpg|無料の豆料理 ファイル:PioneerDay_100.jpg|ジョー・ブラウンのファミリー ファイル:PioneerDay_65.jpg|本物のカウガール 1940年12月に悲劇が起こった。「耐火構造」のはずだったエル・パソ・デ・ロブレス・ホテルが火事で全焼した。その夜泊まっていた客は無傷で逃げることができた。しかし、火事を発見した当直の事務員が警報を鳴らした直後に心臓発作を起こして亡くなった。この火事から数か月後、同じ場所に建てる新しいホテルの設計図が引かれた。その設計は全く新しい概念に基づいていた。ガーデン・イン・ホテルは自動車で訪れる客をもてなせるように設計された。1942年2月に工事が完了し、新しいパソロブレス・イン が営業を始めた。 1960年代から1970年代、パソロブレス・インにはほとんど変化が無かった。しかし、パソロブレス市は著しい成長を遂げていた。地域のワイン産業が隆盛し、カリフォルニア州中部祭が地域の呼び物に拡大し、ナシミエント湖のような幾つかの湖が行楽地となり、魅力有り友好的な社会としてのパソロブレスの評判が大きくなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「パソロブレス (カリフォルニア州)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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